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| [2007.8.7] |
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第156回
(株)ぱど 代表取締役社長 倉橋 泰氏 |
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| フリーペーパー発行部数でギネス記録樹立 |
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道程は「いつも土壇場、常に修羅場、まさに正念場」 技術屋が出版界に大転身、その理由とは…? |
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たった1本の電話が人生を左右することがある。
1983年、米国ロサンゼルス。その男は荏原製作所の駐在員として米国エリオット社に勤めていた。京都大学大学院工学部化学工学科卒の「技術屋」、彼がのちにフリーペーパー「ぱど」を発刊し、その部数でギネス記録をつくるとは、当時の誰が想像しえただろう。エンジニアが情報誌を発行する、聞けば誰しも思う。『畑違いだ』と。「当初は楽観してたんですよ」。本人はからりと笑うが、起業から現在に至る道程は苦労の連続だった。親しい人からこう評された。「いつも土壇場、常に修羅場、まさに正念場」。(株)ぱど代表取締役社長の倉橋 泰氏(=写真)に創業物語を伺った。きっかけは何の変哲もない新聞勧誘の電話。いつもと変わらぬ休日の、昼前のことだった。
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―― 米国で転機を迎えられたそうですね。
倉橋 大学卒業後、荏原製作所に入社しました。コンプレッサ・タービンの見積業務を円滑に進めるため、1983年に30歳で米国エリオット社に駐在しました。着任して間もない頃、同社はマネージャーを替え、一時に従業員8人をクビにしました。それを目の当たりにし、会社員も手に職を持たないと危ない、と感じたことが、そもそもの発端です。私は暇な折に米国、日本で実現可能なビジネスを各々5つ考え、構想を練りました。
ある休日のこと、昼前に家の電話が鳴りました。渡米したばかりの頃だし、訝りました。時差を考えれば日本からの電話とは思えなかったからです。しかし電話に出ると、何のことはない、ロサンゼルス・タイムズの勧誘電話でした。英語が苦手な私は英字新聞を読む気もなく、すぐに断ろうとしました。ところが、驚いたことになんとその電話口の女性がめちゃくちゃかわいらしい声をしているのです。私はうっとりと「YES」と答えてしまい、何が何やらわからぬまま定期購読が決まりました。翌朝、同僚にその話をすると案の定笑われましたが、その笑う理由が変だった。彼は「今どき、新聞なんかを購読するとは」と言って笑うのです。当時、米国はTVのニュース戦争の真っ最中で「情報はタダ」の意識が強かった。社内で聞きまわると、新聞定期購読者は全従業員のわずか20%。新聞の存在意義が薄れていると感じました。ロサンゼルスには「ペニーセーバー」というフリーペーパーがあります。創刊20年以上、166の配布エリアに、ロサンゼルス・タイムズも真っ青の計250万部を発行している。私は、新聞が形を変えるならこれだ、と考えました。
―― 「ぱど」立ち上げまでの経緯は。
倉橋 85年に帰国すると、新規事業部の第1号社員として配属されました。「何でもやっていい」と言うので、送風機を使った「スカイダイビング練習機」や「ぱど」の企画を出しましたが、上司はそれを却下も許可もしない。当時、私には「スピッツ」のあだ名があったのですが、いつものように担当部長に噛みつくと、ようやく人事部付きの形で「ぱど」のマーケティング許可が下りました。東映映画村で似顔絵描きをやっていた妻の妹に挿絵を描かせ、作成した見本誌を見せて回ると約200社で好評を得ました。それでも、会社は否定的。「機械メーカーが出版なんて」と言うのです。業を煮やした私は、社長に直訴し熱弁をふるいました。すると条件が出ました。荏原は出版の素人なので、共同出資者が必要、ということでした。そこで東奔西走し、コネというコネを辿り、やっとの思いで凸版印刷やゴルフ場のオーナー、大手商社といった出資者を集めましたが、結局、凸版印刷以外は認められませんでした。
「失敗したら4億〜5億円もの赤字になる。会社に迷惑がかかる。お前はそれを償えるのか」
「離陸には通常の何倍も力が必要だし、ハイリスク、ハイリターンこそ大きな成果を生みます。『汗を出す人、金を出す人、知恵を出す人』のうち、私は知恵を出します」
私は、ユダヤ商人の話まで持ち出し説得しましたが、社長はついに首を縦に振りませんでした。悔しさのあまり、社長室を出て副社長に「今どき会社のために働く人なんていませんよ」と言ってしまいました。すると、思いがけず彼はうなずき「その通りだ。特攻隊の隊員は大日本帝国万歳≠ニ言って死んだんじゃない。みんな、恋人の名や、『お母さん』と叫んで死んでいったんだ」と言いました。そして、やおら受話器を取り、第一勧業銀行(当時)と三和銀行(同)の頭取、また東芝の役員に電話をかけてくれ、その場で3000万円を集めてくれた。実は、副社長は恥を忍び帰国した特攻隊の生き残りでした。87年、私はついに会社を設立、同年10月に「ぱど」創刊にこぎつけました。
―― 創刊後もご苦労が絶えなかったようですね。
倉橋 順風満帆に見えた船出でしたが、2号目から広告が激減。創刊号にはご祝儀の広告が入っても、全体の広告費が年間予算に依る、と知らなかったのです。当初、赤字が4億円になったらやめる、と言っていましたが、週の売り上げが300万円で経費が1000万円だったので、1日100万円、単純計算で1年後には3億6500万円の赤字が見込まれました。
途方に暮れ、打つ手はありません。焦りと不安から毎晩ぐっしょりと寝汗をかきました。ある朝など、シーツを見て血の汗をかいたと思い、驚きました。寝汗でシーツに人の形が浮きあがり、ピンク色に変色していたのです。家計も赤字。営業などに身銭を切っていたので、妻に座らされ「家には今これしかお金がない、知っておいて下さい」と告げられました。妻は苦しい状況で相当やり繰りしてくれていました。
万策尽き、私は寺へ行き座禅を組んで考えました。そこで、ひとつの決心をしました。「編集も、営業も、とすべてを抱え込まず、もっと社員を信じ、任せよう」と。私だけにできることをやる、それは講演や取材を積極的に受けて「ぱど」の知名度を上げることでした。それに気づいた後、会社は活気付き、大幅に売り上げが伸び、成長軌道に乗ることができました。
―― 今後の抱負は。
倉橋 売上高10億円の達成までに8年半かかりましたが、創業20年目の今年は100億円の大台に乗りました。まだ挑戦は終わらない。10年後には1000億円を目指します。
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| 全国に拡大している「ぱど」ネットワーク |
進化する「ぱど」。
『地域活性化の一助になりたい』と倉橋氏は語る |
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| (聞き手 本紙編集局長 泉谷 渉/古沢大輔記者) |
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▼(株)ぱど
〒231-8483 横浜市中区桜木町3-8 横浜塩業ビル Tel.045-212-8150
http://www.pado.co.jp/
1987年8月設立、資本金5億2336万円、代表者=代表取締役社長 倉橋 泰氏 |
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